# 夢層の探偵
暁人は、他人の夢を盗む男だった。
「……また、か」
深夜の自宅アパート。埃っぽい一室で、暁人は額に手を当ててうめいた。掌の下で脈打つ鈍痛。他人の夢を見た後の、いつもの副作用だ。
窓の外には新宿のネオンが輝き、現実は確かにそこにある。だが暁人にとって、夢こそがもう一つの現実だった。いや、むしろこちらの方が「現実」に近いかもしれない。夢の中では、人々は嘘をつかない。隠された欲望、忘れ去られた記憶、剥き出しの恐怖――すべてがそこに横たわっている。
スマートフォンが振動した。見知らぬ番号からのメッセージ。
「御鏡玄という人物を知っていますか? 彼の夢を見てほしい。報酬は提示額の三倍。今夜、渋谷の交差点で」
暁人は眉をひそめた。依頼はいつも匿名のチャット経由だ。直接指定されることなどない。ましてや、御鏡玄の名を知っている者など——
記憶の断片が疼いた。遠い昔、子どもの頃。白衣の男たちに囲まれて……「被験体No.7」と呼ばれて……
「やめろ」
暁人は自分に言い聞かせるように呟いた。過去は掘り返さない。それが生きるためのルールだった。
だが、指は自然と返信を打っていた。
「了解。23時で」
***
渋谷スクランブル交差点は、深夜になっても人々の熱気が残っていた。暁人は歩道橋の上から群衆を見下ろし、依頼者を待った。
「暁人さんですね」
背後から響いた声は、驚くほど若かった。振り向くと、黒いロングコートをまとった少女が立っていた。年齢は高校生ほどか。銀色の髪が街灯に照らされ、不自然に輝いている。
「霧島澪です。依頼主です」
「子どもがそんな大金を?」暁人は疑わしげに目を細めた。
「年齢と能力は関係ありません。あなた自身がその証でしょう?」
澪の目が一瞬、青白く光ったように見えた。錯覚か? いや、違う。彼女も「あちら側」の人間だ。
「御鏡玄はソムナス社のCEOです」澪は説明を始めた。「表向きは睡眠関連のバイオテック企業ですが、実際には夢層の研究を進め、その支配を目論んでいます」
「夢層」という言葉に、暁人の背筋が凍った。それは彼が密かに呼んでいた領域の名前だった。個人の夢を超えた、より深く、より危険な集合的無意識の海。
「なぜ私が?」
「あなたは『夢探偵』として噂になっています。他人の夢に入り、情報を引き出せる。御鏡の過去を知れるのはあなただけです」
「断る」
即答だった。ソムナス社の名は聞いたことがある。巨大企業だ。そんな相手に刃向かえば、消されるのがオチだ。
「あなたもソムナスの被験体だったのでは?」
澪の言葉が、暁人の足を止めた。
「15年前、『夢層アクセス計画』という非人道的実験が行われました。被験体の子どもたちは、強制的に夢層に触れさせられ、多くが精神崩壊を起こした。生存者はごくわずか」
暁人の耳鳴りがひどくなった。記憶の霧が渦巻く。白い部屋。モニターの音。痛み……頭が割れそうな痛み……
「あなたはその生存者です。そして御鏡玄は、あの実験の責任者です」
「証拠は?」
澪はコートの内ポケットから、古い写真を取り出した。写っているのは、無表情な子どもたちが並ぶ研究所の風景。中央に、幼い暁人の顔があった。そしてその横に、若き日の御鏡玄が立っている。
「なぜ今になって?」
「御鏡が夢層の完全制御に近づいています。もし彼が成功すれば、人々の無意識が企業や国家に支配される。まずは彼の弱点を知る必要がある。そのためには、彼が最も恐れる記憶――夢層に眠る彼自身のトラウマにアクセスしなければ」
澪は真剣な眼差しで暁人を見つめた。
「報酬は金だけではありません。あなた自身の過去も。実験の真相、そしてあなたが夢を見続ける理由も」
誘惑だった。危険すぎる誘惑。
暁人はため息をついた。
「どうやって御鏡の夢に入る? 近づけば警備に捕まる」
「心配ありません。すでに『鍵』は手配済みです」
澪が小さなUSBメモリを差し出した。
「これは御鏡の私邸のセキュリティデータです。今夜、彼は深い睡眠薬を服用します。夢層へのアクセスが最大化されるタイミングです。あなたが夢に入り、私が現実でガードします」
「君が?」
「私には『ヨル』がついています」
その瞬間、暁人の影がうねった。自分の影が、意思を持ったかのように動く。影から這い出てきたのは、不定形の黒い存在だった。二つの白い点が目のように光っている。
「これが……?」
「夢層の住人です。私たちは『ナイトメア』と呼んでいます」澪が説明した。「ヨルは私のパートナーです。現実と夢層の狭間を移動できます」
ナイトメア。悪夢。それが現実に顕現している。
暁人は覚悟を決めた。逃げ続けても、過去は追いかけてくる。ならば、向こうからぶつかるしかない。
「了解した。でも一つ条件を」
「なんですか?」
「もし私が夢層でおかしくなったら……目を覚まさせてくれ。二度と覚めないくらいなら、殺してくれ」
澪は一瞬、表情を曇らせたが、ゆっくりとうなずいた。
「約束します」
***
御鏡玄の私邸は、都心の高級住宅街にあった。澪が用意したデータ通り、セキュリティにはわずかな隙間があった。夢層の力を使う者の常で、御鏡は現実の警備を過信しているようだ。
寝室は広く、無機質なデザインだった。ベッドで眠る御鏡玄は、写真よりも老けて見えたが、その顔には確固たる威厳が刻まれていた。
暁人はベッドの傍らに座り、御鏡の額に手を当てた。接触。これが夢への扉を開く儀式だ。
「行ってきます」
「気をつけて」澪が呟いた。「夢層では、すべてが象徴です。文字通り受け取ってはいけません」
暁人は目を閉じた。意識を深く、深く沈めていく。自分の夢の領域を通り抜け、より深い層へ――
***
着いた先は、研究所だった。
しかし、それは現実の研究所ではなかった。壁が脈打ち、床は透明で、その下を記憶の断片が流れている。天井には無数の目がびっしりと並び、すべてが暁人を見下ろしていた。
「ここが……御鏡の夢層か」
廊下を進む。ドアの一つが微かに開いている。中から子どもの泣き声が聞こえる。
暁人は息を殺して中を覗いた。
部屋には、幼い少女がいた。白衣の男たちに囲まれ、恐怖に震えている。その少女の顔は、霧島澪に似ていた。
「被験体No.12、反応良好。夢層への適応能力、極めて高い」
冷たい声。振り向くと、若き御鏡玄がメモを取っている。その目には、科学的好奇心以外の何もない。
「博士、この子も……あの子たちのように?」
助手らしき人物が尋ねた。
「必要ならそうなる。進歩には犠牲がつきものだ」
御鏡は無表情に答えた。
暁人は拳を握りしめた。これが現実だったのか。澪もまた、実験の被害者だったのか。
突然、景色が変わった。今度は海辺だ。夕焼けが空を染め、一人の女性が岸辺に立っている。御鏡が近づく。
「やめてください、玄」
女性の声は悲しみに満ちていた。
「もうこれ以上、子どもたちを傷つけないで」
「これは人類の進化だ、綾」
「進化? あなたはただ、自分が神になることを夢見ているだけじゃないですか!」
女性――御鏡綾。彼の妻か?
御鏡の表情が初めて歪んだ。
「お前にはわからない。夢層の可能性が――」
「あなたが壊したのは、可能性じゃない。子どもたちの未来よ!」
綾は泣きながら去っていく。その背中を見送る御鏡の目に、一瞬だけ迷いが走った。
そしてまた転移。今度は真っ白な病室。ベッドで綾が眠っている。昏睡状態だ。御鏡がその手を握りしめている。
「目を覚ませ、綾。お前だけは……お前だけはわかってくれると思っていた」
その時、暁人は気づいた。御鏡の影が、異常に長く伸びている。影が蠢き、御鏡の耳元で何か囁いている。
「そうだ……夢層を制御すれば……綾を覚醒させられる……すべてを修正できる……」
影の囁き。それは御鏡自身の内なる声なのか、それとも――
「お前は誰だ?」
振り向くと、御鏡がこちらの方を見ていた。夢の中の御鏡が、侵入者に気づいたのだ。
「ここは私の領域だ。出ていけ」
御鏡の手が上がる。瞬間、周囲の空間が歪んだ。壁が牙となり、床が口を開ける。夢層そのものが攻撃してくる。
暁人は逃げた。廊下を駆け抜け、ドアを飛び出る。外は無限に続く階段だった。上るほどに深くなる、逆さまの塔。
「逃がさない」
御鏡の声が四方から響く。階段が崩れ始める。暁人は必死に跳び移る。下を見れば、底知れぬ闇が口を開けている。
その時、黒い腕が闇から伸びてきた。暁人を掴み、引きずり込もうとする。
ナイトメアだ! しかし、これはヨルではない。より邪悪で、貪欲な何か――
「暁人さん!」
遠くから澪の声が聞こえる。現実からの呼びかけか?
黒い腕が暁人の足首を握りしめる。冷たさが全身を這い上がる。記憶を、自我を、すべてを吸い取られていく――
「覚めて!」
現実の声が、夢層を揺さぶる。
暁人は全力で意識を引き剥がした。現実へ、戻れ――!
***
「はあ……はあ……」
ベッドの傍らで、暁人は喘いでいた。全身が冷や汗で濡れ、心臓は暴れ馬のように鼓動している。
「大丈夫ですか?」澪が駆け寄った。
「ああ……何とか」
暁人は御鏡の顔を見た。まだ眠ったままだが、眉間に苦悶の皺が寄っている。夢層での戦いが影響しているのだ。
「見ましたか? 御鏡の過去を」
「ああ。でも……それ以上に危険なものを」
暁人は震える手で額を拭った。
「御鏡は、夢層の何かに操られている。あるいは……夢層そのものが、彼を通じて現実に介入しようとしている」
澪の顔色が変わった。
「それでは、計画は――」
その瞬間、寝室のドアが吹き飛んだ。
現れたのは、黒いスーツの男たちだった。しかし、その動きは人間離れしている。影が実体のように蠢き、目には青白い光が灯っている。
「夢層の護衛……」澪が呟いた。「御鏡が夢層から召喚したのです」
ヨルが澪の前に立ちはだかるが、敵は五体。圧倒的不利だ。
「逃げましょう!」澪が叫んだ。
しかし、遅かった。一人の護衛が瞬時に暁人の前に現れ、手首を掴んだ。触れた瞬間、また夢層に引きずり込まれる感覚。
「離れなさい!」
澪の叫びと共に、ヨルが護衛に飛びかかる。闇と闇が絡み合う。
その隙に、暁人はもう一人の護衛の攻撃をかわし、窓へ向かう。澪も後を追う。
「こっちです!」
二人は廊下を駆け抜け、階段を下りる。背後から護衛たちの足音が追ってくる。
屋外へ飛び出し、路地を駆ける。ようやく護衛の気配が遠のいた時、二人は小さな公園で息を継いだ。
「あれは……人間じゃない」暁人は喘ぎながら言った。
「夢層に深く関わると、現実との境界が曖昧になります」澪も肩で息をしていた。「御鏡は、もう人間の領域を超えつつあるのかもしれません」
「君は知っていたのか? あの実験のことを。君も被験体だったんだろう?」
澪は沈黙し、うなずいた。
「私はNo.12。あなたはNo.7。私たちは生き残った数少ない被験体です」
「なぜ今、動き出した?」
「御鏡が『最終段階』に進もうとしているからです」澪の目に決意の光が宿った。「彼は夢層の中心にある『原初の夢』にアクセスしようとしています。もし彼が成功すれば、すべての人間の無意識が彼の支配下に入る」
「原初の夢……」
「人類の集合的無意識の根源です。神話の元となった場所。そこには、創造の力も、破壊の力も眠っています」
暁人は自分の手のひらを見つめた。この力は、単なる偶然ではない。実験の結果、与えられたものだ。いや、目覚めさせられたものか。
「私たちには止める義務があります」澪が言った。「あなたの力が必要です。夢層を深く探る力が」
「私には、あの護衛にすらまともに戦えなかった」
「力はまだ覚醒していないだけです。あなたは特別な被験体でした。夢層への適応率が最も高かった。だからこそ、御鏡はあなたを――」
澪の言葉が途中で止まった。公園の入口に、新たな影が立っていた。
背の高い男。黒いコート。その顔は、夢層で見た若き御鏡に似ているが、どこか非人間的な冷たさを帯びている。
「よくぞ私の夢を荒らしてくれた」
声は、夢層で聞いたそれと同じだった。
御鏡玄が、完全に目覚めた状態で、二人の前に立っていた。
「霧島澪。君の両親は優秀な研究者だった。あの事故がなければ、もっと貢献できたのに」
澪の体が硬直した。
「事故……だと?」
「もちろん事故だ」御鏡の口元が歪んだ。「彼らが実験データを外部に漏洩しようとしたからね。夢層の危険性を公表しようとした」
「あなたが……殺した?」
「自業自得だ。そして君は、彼らの意志を継いで私を止めようとする。感動的だ」
御鏡の目が暁人に向けられた。
「そして暁人君。我が最高傑作。君のデータは今でも研究の基礎となっている。戻ってきてくれないか? 君の力は、夢層の完全理解に必要だ」
「断る」
「残念だ」
御鏡が手を上げた。瞬間、周囲の空間が歪み始める。公園の木々が不自然な形にねじれ、地面が波打つ。現実そのものが夢層の影響を受けている。
「彼はここで夢層を顕現させている!」澪が叫んだ。「逃げられない!」
ヨルが飛びかかるが、御鏡は指を一瞬動かしただけで、ナイトメアを吹き飛ばす。
「おとなしくしなさい」
圧力。目に見えない力が暁人を地面に押し付ける。呼吸が苦しい。
「君たちにはわかっていない。夢層こそが人類の未来だ。病気も老いも、死さえも克服できる。すべての苦しみから解放される世界を――」
「そのために……どれだけの犠牲を……!」暁人は歯を食いしばって言い返した。
「進歩には犠牲が必要だ。そしてその犠牲は、夢層が完成すれば無意味になる。過去さえも書き換えられるのだから」
御鏡の目が狂気の輝きを増した。
「綾も……すべての被験体たちも……蘇らせてみせる」
その時、暁人の頭の中で何かが弾けた。
記憶の洪水。白い部屋。痛み。そして……少女の声。
「逃げて……暁人……」
誰だ? その声の主は?
「お前の記憶も、私が整理してやろう」
御鏡が近づく。手が暁人の額に触れようとする――
「離れなさい!」
澪の叫びと共に、彼女の体から青白い光が迸った。光が御鏡の力を一時的に遮断する。
「今です! 走って!」
暁人は本能に従い、走り出した。澪も後を追う。背後で御鏡の怒りの声が響く。
「逃がすと思うか!」
しかし、二人はすでに路地に飛び込み、人通りの多い大通りへと駆け出していた。振り返れば、御鏡の姿はない。公の場ではさすがに無理だったか。
安全な場所まで走り続け、ようやく二人は止まった。息を切らしながら、顔を見合わせる。
「彼は……本気で世界を変えようとしている」暁人は呟いた。
「止めなければ」澪の声には疲労が滲んでいたが、意志は揺るがない。「次はもっと準備が必要です」
「次?」
「御鏡は必ず『原初の夢』へのアクセスを試みます。それを止めるには、私たちも夢層の深部へ行かなければ」
澪は暁人を真っ直ぐに見つめた。
「あなたの記憶の封印を解く時です。あなたが何者で、なぜこの力を持っているのか。すべては夢層の深部でつながっています」
暁人は頷いた。もう逃げられない。過去が、現在が、未来が、すべて夢層に通じている。
「私の記憶の中に……答えがあるのか」
「あります。でも危険です。記憶を解けば、あなた自身が崩壊するかもしれません」
「もう関係ない」暁人は言った。「あいつが夢層を支配するよりはましだ」
夜明けが近づいていた。東の空が薄明るくなり始める。
「まずは隠れ家へ」澪が言った。「そこで計画を練りましょう。護衛たちも、もう追ってきません」
「大丈夫か? 君の力は――」
「心配いりません。ヨルが様子を探っています」
確かに、澪の影が微かにうねっている。ナイトメアが警戒を続けているのだ。
二人は歩き出した。新宿の街が朝の準備を始めている。通勤する人々、店を開ける店主たち。誰もが、自分たちの無意識が狙われていることなど知らない。
暁人は自分の手のひらを見つめた。この手で、夢を操り、記憶を盗む。それは呪いか、それとも使命か。
「一つ聞いていいか」暁人が言った。「君の両親のことは……本当に御鏡が?」
澪は一瞬、目を伏せた。
「真相はわかりません。でも、夢層に答えがあります。両親の記憶が、どこかに残っているはずです」
「夢層は……すべてを記録しているのか」
「ええ。喜びも悲しみも、すべてがそこに沈殿しています。私たちはその考古学者です」
考古学者。妙にしっくりくる表現だった。
隠れ家とされる古びたマンションに着いた時、暁人は最後にもう一度振り返った。街の向こうに、ソムナス社のビルが見える。あの場所で、すべてが始まった。
「次はいつ、夢層へ?」
「明日の夜」澪が鍵を開けながら言った。「それまでに、あなたの精神を強化する訓練をします。深層へのダイブは、今までの比ではありませんから」
ドアが開き、薄暗い室内が見えた。ここが、新たな戦いの拠点になる。
暁人は一歩、中へ踏み込んだ。
夢と現実の狭間で、真実を探す戦いが、今始まろうとしていた。
(了)
次話予告:暁人は澪の指導のもと、夢層深部へのダイブ訓練を開始する。しかし、訓練中に突如現れた謎の少女の幻影――彼女は暁人の過去とどう関わるのか? そして御鏡は、ついに「原初の夢」への扉を開く計画を実行に移す。時間は限られている。