第二章 消えた同僚
装置が消えてから三日が経った。三月二十八日、土曜日。
悠真はあの夜の出来事を誰にも話していなかった。話したところで信じてもらえるはずがない。深夜に研究室で見つけた謎の装置から過去にメッセージを送った――精神科を勧められるのが関の山だ。
しかしLINEのメッセージは消えない。三月二十一日、午前十一時二十三分。自分から自分への警告。それだけが、あの夜の体験が現実だったことを証明している。
土曜の午後、悠真は渋谷のカフェで旧友の桐島遥と待ち合わせていた。遥は同じ大学の同期で、現在は大手製薬会社のデータサイエンティストだ。年に数回会って近況を報告し合う仲だった。
「悠真、顔色悪くない?」
遥がアイスラテのストローから口を離して言った。ショートカットの黒髪に切れ長の目。大学時代から変わらない鋭い観察眼だ。
「ちょっと寝不足でね」
「相変わらず研究室に入り浸り?」
「まあ……そんなところ」
悠真は言葉を濁した。遥に話してしまおうかという誘惑はあった。彼女は科学者だ。少なくとも頭ごなしに否定はしないだろう。
「実はさ、遥に一つ聞きたいことがあって」
「何?」
「量子もつれの非局所性って、時間方向にも成立すると思うか?」
遥が片眉を上げた。「急にどうしたの。量子もつれは空間的な相関だよ。時間方向の非局所性は理論的にはいくつかのモデルで議論されてるけど、実験的に確認されたことはない。なぜ?」
「もし仮に、量子もつれを使って過去に情報を送れるとしたら――」
「タキオンアンチテレフォンのパラドックスにぶつかるね」遥は即座に答えた。「因果律が壊れる。Aが過去のBに情報を送り、Bがそれを受けてAの行動を変える。するとAはそもそもメッセージを送らなくなる。古典的な祖父のパラドックスの変形」
「でも、もしメッセージが届いても歴史が変わらないとしたら?」
遥が首を傾げた。「どういう意味?」
「メッセージは届くけど、受け取った側がそれに従わない。あるいは従えない。歴史は一貫性を保つ。ノビコフの自己無撞着原理みたいに」
「悠真、何を見たの?」
遥の目が真剣になった。悠真は観念した。カフェの喧騒の中、声を落としてあの夜の出来事を語った。
* * *
遥は最後まで黙って聞いていた。そして言った。
「LINEのメッセージ、見せて」
悠真はスマートフォンを差し出した。遥はトーク画面を丹念に確認した。メッセージのメタデータ、送信時刻、既読時刻。
「確かに三月二十一日に送信されてる。でもこれ、あなたが無意識に自分でタイプした可能性は?」
「十一時二十三分に? その時間、俺は電車の中だった。モバイルSuicaの乗車履歴で確認できる」
遥は腕を組んだ。「仮にこれが本物だとして。装置が消えたということは、もう使えないんでしょう? 再現性がない現象は科学的には扱えない」
「わかってる。だから黙ってた。ただ……気になることがもう一つあるんだ」
悠真はカバンから一枚の写真を取り出した。研究室の集合写真だ。昨年の忘年会で撮ったもので、十二人の研究者が並んで笑っている。
「この人、覚えてるか?」悠真は右端の人物を指さした。
白衣を着た痩せた男。角張った顎に銀縁の眼鏡。少し不自然な笑顔を浮かべている。
「見たことないけど。誰?」
「安藤正樹。ポスドクで、量子エラー訂正の研究をしていた。俺が技術協力を始めた頃からいた人で、よく昼飯を一緒に食べてた」
「それで?」
悠真は声を落とした。「今週、研究室に行ったら、安藤さんの席がなくなってたんだ。机も、荷物も、ネームプレートも。三浦に聞いたら『安藤って誰ですか?』と言われた」
遥の表情が変わった。
「教授にも聞いた。『うちにそんなポスドクはいたことがない』と。大学の人事記録も調べてもらったけど、安藤正樹という研究者の在籍記録は存在しない。なのに――」
悠真は写真を遥に見せた。「この写真には写ってる」
沈黙が流れた。カフェのBGMだけが耳に届く。
「あなたがメッセージを送ったことで、何かが変わったと?」遥が慎重に言った。
「わからない。鯖味噌定食の警告なんて些細なメッセージだ。それで人が一人消えるなんて因果関係が見えない。でもタイミングが合いすぎる」
遥はしばらく考え込んでいた。やがて口を開いた。
「悠真。二つの可能性がある。一つは、あなたの記憶が間違っている。安藤さんは最初から存在しなくて、写真の人物も別人。ストレスによる記憶の混同」
「もう一つは?」
「本当にタイムラインが分岐した。あなたのメッセージが何らかの蝶効果を引き起こし、安藤さんがこの研究室に来るという因果の連鎖が途切れた。あなただけが『以前のタイムライン』の記憶を保持している」
悠真は写真を見つめた。安藤の笑顔が、もの悲しく見えた。
「もし後者だとしたら」遥が続けた。「装置が消えたのは救いかもしれないね。これ以上使ったら、何人消えるかわからない」
* * *
その夜、悠真は自宅のアパートに帰り、ベッドに横になった。天井を見つめながら、安藤のことを思い出す。
安藤正樹は寡黙だが優しい男だった。昼食時にはいつも文庫本を読んでいて、悠真が「何を読んでるんですか」と聞くと、少し照れくさそうに表紙を見せてくれた。カフカの短編集だった。
「藤原さんはカフカを読みますか?」 「いや、名前しか知りません」 「そうですか。ある朝目覚めると巨大な虫になっていた――というやつです。不条理文学の古典ですね。でも僕は、グレゴール・ザムザの悲しみより、彼の家族がだんだん虫に慣れていくことの方が怖いと思うんです」
あの会話は現実だったのだろうか。それとも、存在しない人物との、存在しない記憶なのか。
スマートフォンが震えた。LINEの通知だ。
差出人は――「藤原悠真」。自分自身だ。
悠真の血の気が引いた。震える指でメッセージを開く。
「装置を探すな。安藤のことは忘れろ。これ以上関わると、次に消えるのはお前だ」
送信時刻は――二〇二六年四月十五日。
三週間後の、未来からのメッセージだった。