第三章 四月十五日の真実
未来の自分からの警告を受け取った夜、悠真は一睡もできなかった。
メッセージの意味は明確だ。三週間後の自分が、過去の自分に警告を送ってきた。つまり、未来の自分はQTL-7を再び手に入れたということだ。そして何か恐ろしいことが起きたから、「これ以上関わるな」と言っている。
しかし同時に、矛盾がある。もし悠真が装置を探さなければ、未来の自分はどうやってメッセージを送ったのか。装置に関わらなかった人間が、装置を使ってメッセージを送ることは不可能だ。
これは罠だ、と悠真は思った。未来の自分が「探すな」と言っているということは、探した結果として何かが起きるということだ。しかしメッセージを送る以上、未来の自分は装置を使っている。つまり――どの道、悠真は装置を見つけることになる。
パラドックスだ。ノビコフの原理が正しければ、歴史は自己無撞着でなければならない。悠真が装置を見つけ、使い、そして過去の自分に警告を送る。その結果として過去の自分は警告を無視し(あるいは無視せざるを得ず)、やはり装置を見つける。因果のループが閉じる。
四月に入った。桜が満開を迎え、本郷のキャンパスは花見客で賑わっていた。悠真は通常通り研究室に出入りしながら、密かに装置の手がかりを探し始めた。
最初の手がかりは、量子コンピューターのログだった。
* * *
悠真は自分のアクセス権限を使い、量子コンピューターの使用ログを調べた。三月二十四日深夜――あの夜の記録だ。
ログには奇妙なエントリがあった。午前一時四十七分から二時十二分にかけて、通常のジョブスケジューラを経由しない直接アクセスが記録されている。使用された量子ビット数は一二八。これは研究室の実験で使う量を遥かに超えている。
しかもアクセス元のIPアドレスが異常だった。通常、研究室内の端末は大学のネットワークを経由するため、10.x.x.xの範囲のプライベートIPが記録される。だがこのログのIPアドレスは「0.0.0.0」――未定義だ。
「ローカルホストですらない……」
悠真はさらにログを遡った。すると驚くべきことに、同様の「0.0.0.0」からのアクセスが過去六ヶ月間に十七回記録されていた。すべて深夜帯で、使用量子ビット数は毎回正確に一二八。
誰かが定期的に、この量子コンピューターを不正使用している。
悠真は次に、建物のセキュリティカメラの映像を確認しようとした。しかし理学部二号館のカメラは廊下のみで、研究室内部は撮影していない。廊下の映像を確認すると、三月二十四日深夜の悠真自身の姿は映っていたが、他に不審な人物は映っていなかった。
装置は悠真が来る前からそこにあり、悠真が去った後に消えた。その間、廊下を通った人間は悠真だけだ。
「つまり、装置は廊下を通らずに出入りした……?」
ありえない。窓は六階で外からのアクセスは不可能だ。ダクトや天井裏も通れるような大きさではない。
残る可能性は一つ。装置自体が「転送」されている。時間方向だけでなく、空間方向にも。
* * *
四月十日。期日まであと五日。
悠真は遥に連絡を取った。渋谷のカフェで再び会う。
「ログを見てほしい」悠真はノートパソコンを開いた。量子コンピューターの使用記録と、自分の分析結果をまとめたスプレッドシートを見せる。
遥は十分ほどかけてデータを精査した。そして顔を上げた。
「十七回のアクセスに規則性がある。平均間隔は十一・二日。量子ビットの使用パターンも毎回同じ。これは人間の手動操作じゃない。自動化されたプロセスだ」
「つまり、誰かがプログラムを仕込んでいる?」
「そう。そして次のアクセス予定日は――」遥がスプレッドシートの数式を指さした。「四月十四日の深夜。つまり四月十五日の未明」
四月十五日。未来の自分がメッセージを送ってきた日付だ。
二人は顔を見合わせた。
「行くんでしょう?」遥が言った。
「行くしかない。未来の自分がメッセージを送った日に、装置が現れる。そこに行けば装置が手に入る。因果ループが閉じる」
「そしてあなたは過去の自分に警告を送る」
「そうだ。『装置を探すな。安藤のことは忘れろ。次に消えるのはお前だ』」
遥は唇を噛んだ。「でもその警告が無視されることを、あなたは知っている。だってあなた自身が無視したから。このループには出口がないの?」
「一つだけ可能性がある」悠真は言った。「警告の内容を変える。同じ日付に、違うメッセージを送る。それで何が起きるかはわからない。でも――」
「タイムラインが分岐する」
「ああ。安藤さんが消えたときのように。今度は、このループ全体が書き換わるかもしれない」
遥は長い沈黙の後、静かに言った。
「私も行く。一人で行かせない」
* * *
四月十四日、午後十一時五十分。
悠真と遥は理学部二号館の六階、研究室の前に立っていた。悠真の手が鍵を回す。ドアが開く。
実験台の上に、黒い筐体があった。
三週間前と同じ装置だ。液晶ディスプレイには緑色のカーソルが点滅している。
> QTL-7 TEMPORAL MESSAGING SYSTEM v0.0.1 — READY
「本物だ……」遥が息を呑んだ。
悠真はキーボードに手を置いた。指が震えている。遥が隣で見守る。
logコマンドを打つ。送信履歴が表示された。
> LOG: > #001 2026-03-24 02:04 → 2026-03-21 11:23 「鯖味噌定食を食べるな。腹を壊す。」 STATUS: DELIVERED > #002 2026-04-15 00:12 → 2026-03-28 22:41 「装置を探すな。安藤のことは...」 STATUS: SCHEDULED
二番目のメッセージはまだ「SCHEDULED」だった。送信予定時刻は四月十五日の午前零時十二分。あと二十分後だ。
「キャンセルできる」悠真は言った。「このメッセージをキャンセルして、違う内容を送れば、タイムラインが変わる」
「変わるって、どう変わるの? 良い方に変わる保証は?」
「ない。でも遥、俺は安藤さんを取り戻したい。あの人がこの世界から消えたのは、俺のせいだ。鯖味噌定食なんかのために、一人の人間の存在を消してしまった」
悠真の声が震えた。遥は彼の手に自分の手を重ねた。
「やりなさい」
悠真はキーボードを叩いた。
> cancel #002 > CANCELLED.
> send 2026-03-24 「安藤正樹を守れ。量子コンピューターの128qubitアクセスログを追え。QTL-7は未来のお前が作る。すべてはここから始まる」
エンターキーを押した。装置が激しく振動した。液晶の文字が乱れ、サーバーラックから火花が散った。部屋の照明が消え、非常灯の赤い光だけが二人を照らした。
> TRANSMISSION COMPLETE. Coherence: 23.1%. Timeline branch probability: 97.8%.
タイムライン分岐確率、九十七・八パーセント。
世界が、書き換わろうとしていた。
悠真は遥の手を握りしめた。二人の周囲で空気が歪み、現実そのものが溶けるように揺らいでいく。
最後に見えたのは、液晶に表示された一行のテキストだった。
> WARNING: You are now in Timeline B. There is no return.
あなたは今、タイムラインBにいる。帰還は不可能。
暗闇の中で、悠真は思った。これが「東京タイムリープ」の始まりだ。そして同時に、ある一つの世界の終わりでもある。
安藤正樹がどこかで生きている世界。それが、この手で掴み取った新しい現実だ。
たとえ帰り道がなくても。
—— 第一部・完 ——