夢界探偵 ルシフェル・クロノスの冒険

第3话第3話

# 第3話:沈黙の監査

「……つまり、この取引には第三者の関与が確認できませんでした」

会議室の空気が一瞬で凍りついた。監査法人のシニアマネージャー、佐々木の声は淡々としていたが、その言葉の重みは誰の耳にも明らかだった。

桜木商事の経理部長、高橋は額に汗を浮かべて反論した。

「いや、それは誤解です。当社の取引はすべて適正な手続きを経て――」

「適正な手続きであれば、なぜ関連書類の一部が欠落しているのでしょうか」

佐々木は手元のタブレットを軽く叩いた。スクリーンに映し出されたのは、昨年度の特定取引に関する一連のメール履歴だった。その中には、桜木商事の常務取締役である私、遠藤の名前が複数回登場していた。

「遠藤常務、この件についてご説明いただけますか」

全員の視線が私に集まる。監査チームの面々、経理部のスタッフ、そして社長の桜木――彼の目にはいつもの温かみはなく、鋭い探るような光が宿っていた。

私はゆっくりと席を立ち、スクリーンの前に立った。

「この取引は、当社が新規事業として検討していたベンチャー企業との共同プロジェクトです。残念ながら、市場環境の変化により計画は中止となりましたが、その過程で発生した調査費用の精算が問題となっているのでしょう」

「中止となったプロジェクトの費用が、なぜ四半期をまたいで計上され続けたのですか」

佐々木の質問は核心を突く。私は事前に用意していた資料を手に取り、配布した。

「プロジェクトの中止判断には時間を要しました。その間も契約上の義務として一定の費用が発生しており、それらを適切に計上したまでのことです。すべての決裁書類は社内システムに記録されており、ご確認いただけます」

会議室に再び沈黙が流れた。佐々木は配布資料に目を通し、やがて軽くうなずいた。

「追加資料の提出をお願いします。監査期間を三日延長させてください」

「承知しました」

社長の桜木がようやく口を開いた。その声には、かすかな安堵の色がにじんでいた。

監査チームが退出した後、桜木は私を執務室に呼び寄せた。

「遠藤、あの件は本当に問題ないのか」

窓辺に立ち、背を向けたままの桜木の問いかけは、これまでになく厳しい響きを帯びていた。

「はい。書類上の不備はありますが、実態として不正取引は存在しません」

「……そうか」

桜木は深く息を吐き、ようやく私の方を向いた。

「お前にはずいぶんと世話になった。娘のことも、会社のことも。だからこそ、聞いておきたい」

彼の目が真っ直ぐに私を見つめる。

「あのベンチャー企業『ネクスト・イノベーション』――実は先月、経営破綻したそうだな」

私の背筋に冷たいものが走った。その情報はまだ公表されていない。いや、正確には、一部の関係者以外には知られていない事実だった。

「ご存じでしたか」

「偶然耳に入った」桜木は机の上の書類に目をやった。「破綻した企業との取引が、監査で問題視される。タイミングが悪すぎると思わないか?」

「確かに不運な偶然です」

「偶然か」

桜木のつぶやきは、疑問形でも肯定形でもない、奇妙な中間の響きを持っていた。

その夜、私は自宅の書斎で一枚の写真を取り出した。色あせたその写真には、若き日の私と桜木、そしてもう一人の人物が写っていた。大学時代の私たち三人――桜木、私、そして今は亡き杉本だ。

杉本は当時、最も革新的なアイデアを持ちながらも、最も運に恵まれなかった男だった。彼が起業した会社が、まさに『ネクスト・イノベーション』の前身であることを、桜木は知っているのだろうか。

携帯が震えた。見知らぬ番号からのメッセージだった。

「監査の件、面白い展開になりそうですね。杉本さんのこと、覚えていらっしゃいますか?」

メッセージの送信主は表示されていない。しかし、その内容が意味するものは明らかだった。

私はすぐに返信した。

「どちら様ですか?」

既読が表示されたが、返信はない。代わりに、一枚の画像が送られてきた――それは、先ほどの監査会議で佐々木が提示した書類の一部だったが、私が配布した版とは微妙に異なる部分があった。取引金額の桁が一つ多い。

携帯を握りしめる手に力が入る。これは明らかな改ざんだ。しかし、なぜ?誰が?

次の瞬間、新たなメッセージが届いた。

「遠藤さんが守りたいものは何ですか?会社?それとも過去?」

画面を閉じ、私は深く椅子にもたれた。窓の外には東京の夜景が広がっている。この街のどこかで、誰かが私の過去を掘り起こし、現在を脅かそうとしている。

ふと、ある可能性が頭をよぎった。もしや桜木は、私が杉本と『ネクスト・イノベーション』の関係を知っていることを、最初から見抜いていたのだろうか?そして、今回の監査が単なる偶然ではないことも?

電話が鳴った。今度は秘書の岸田からだった。

「遠藤常務、お疲れ様です。実は明日の予定についてなのですが、監査法人の佐々木様から直接、追加面談のご希望がありまして……」

「了解した。スケジュールを調整してくれ」

電話を切ると、私は再びあの古い写真を見つめた。写真の中の杉本は、希望に満ちた笑顔を浮かべている。あの日、私たち三人で語り合った未来は、こんな形で戻ってくるとは。

窓ガラスに映る自分の顔は、いつになく疲れているように見えた。監査の行方、謎のメッセージの送り主、そして杉本との過去――すべてが絡み合い、ひとつの大きなうねりとなって押し寄せてくる。

明日の面談で佐々木は何を聞いてくるのか。そして、あの改ざんされた書類の存在を、私はどう説明すべきなのか。

一番の懸念は、これが単なる監査上の問題を超えている可能性だ。誰かが私を罠にはめようとしている。あるいは、桜木商事そのものを標的にしているのか。

デスクの引き出しを開けると、奥から古い手帳が出てきた。杉本が亡くなる前年にくれたものだ。ページをめくると、あるメモが目に入った。

「真実はいつも三層になっている。表層、中層、そして核心。どれに触れるかで、物語は変わる」

彼は当時から、何かを予見していたのだろうか。

エレベーターが一階に到着すると、ロビーで意外な人物に出会った。監査法人の佐々木だった。彼はコーヒーカップを手に、私を見て軽く会釈した。

「遠藤常務、偶然ですね」

「そうですね。まだお帰りではなかったのですか」

「いくつか確認事項が残ってまして」佐々木はカップを傾け、慎重に言葉を選ぶように続けた。「実は先ほど、興味深い情報が入りまして。『ネクスト・イノベーション』の破綻処理を担当する弁護士から連絡があったのです」

私の心拍数が一瞬で上がった。

「その弁護士、杉本というお名前ですが……何かご存じですか?」

佐々木の目が、微かに光った。それは単なる質問以上の、何かを探るような視線だった。

(次話へ続く)

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