梦之螺旋

第4话第4話

# 第4話 歪んだ鏡

午前8時、渋谷スクランブル交差点の巨大スクリーンに、日経平均先物が大幅続落のニュースが流れていた。雨上がりの舗道に映るネオンは、不況の影を滲ませていた。

私は六本木のオフィスビル最上階のカフェで、氷の溶けかかったアイスコーヒーを前にしていた。向かいには、三日前に連絡をくれた情報屋の男が座っている。四十代半ば、髪は白髪交じりで、安物のスーツの肘が擦り切れていた。

「君が探している『鏡の向こう側』の話、少し掘り下げてみたよ」

男は声を潜めた。彼のコードネームは「針」。元新聞記者で、今はフリーの調査ジャーナリストを名乗っているが、その実態は企業の闇を漁る情報ブローカーだ。

「まず確認したいんだが、君が遭遇したあの『体験』――具体的には、自分が別の人生を送っているかのような感覚に襲われたわけだよね?」

私はうなずいた。先週、新宿の雑居ビルで取材中に突然、自分が全く別の人物――外資系ファンドのアナリストとして働いている――という記憶が五時間ほど続いた。医者に見せても異常なし。ストレス性の解離性障害と診断されたが、腑に落ちない点が多すぎた。

針はタブレットを取り出し、画面を私に向けた。

「実は似たような症状を訴える人が、ここ三ヶ月で都内に七人確認されている。全員、金融街かIT企業で働く三十代前半のプロフェッショナルだ」

画面には、年齢も職業も異なる男女の顔写真が並んでいた。共通点は、全員が「自分が別人になったような体験」を報告していること。しかも、その「別人」の人生は、いずれも現実の自分よりわずかに「成功したバージョン」だった。

「面白いのはここからだ」針は画面をスクロールさせた。「七人のうち三人が、症状が出る直前に同じ場所を訪れている。ここだ」

映し出されたのは、虎ノ門に近い老舗の理容室「鏡屋」の外観写真だった。昭和初期の建物で、ガラス張りのファサードが特徴的だ。

「この店、創業百年を超えるらしい。店主は代々『鏡師』を名乗っている。ただの床屋じゃない、何か特別な技術を持っているという噂だ」

私は記憶を辿った。確かに、あの「体験」の前日、虎ノ門でインタビューを終えた後、雨宿りがてらに入った理容室があった。店内の鏡が異常に明るく、自分の顔が少し違って見えた気がした――。

「店主に会ってみたのか?」

「警戒心が強い。取材を断られた」針は肩をすくめた。「だが、店の周辺を調べているうちに、もう一つ興味深い情報を掴んだ」

彼は周囲を見回し、さらに声を潜めた。

「『鏡屋』の真向かいのビルに、『ニューロ・リフレクション・ラボ』というベンチャーが入っている。昨年設立、代表はスタンフォード出身の神経科学者、橘玲子。この会社、表向きはVR技術の開発を謳っているが、実際には『意識の転写』研究を極秘に行っているらしい」

「意識の転写?」

「つまり、ある人間の意識パターンを読み取り、別の『受け皿』に一時的に転写する技術だ。まだ実験段階だが、軍事的応用が期待されている――少なくとも、彼らの投資家はそう信じている」

私の背筋が寒くなった。もしこれが事実なら、私の体験は単なる精神疾患ではない。何者かによる「実験」の結果かもしれない。

「投資家は?」

「匿名のファンドを通じた出資だ。だが、資金の流れを追うと、どうやらシンガポールに本拠を置く投資会社『クロノス・キャピタル』に繋がる。この会社、ここ数年で日本の先端技術ベンチャーに積極投資しているが、その選球眼が異常に鋭い。まるで未来を知っているかのように、次のブームになる技術をことごとく当てている」

針はコーヒーを一口飲み、続けた。

「面白いことに、『クロノス・キャピタル』の日本代表は、君の元同僚らしい」

「誰だ?」

「高城竜也。三年前に君のいた経済誌を辞めて、シンガポールに渡った人物だ」

私は息を呑んだ。高城は確かに同期だった。鋭い分析力で将来を嘱望されていたが、ある日突然退社し、消息を絶っていた。彼がこんな形で再び現れるとは――。

「彼と連絡は取っているのか?」

「避けられている。だが、今週末、六本木で開催される『次世代金融テックカンファレンス』に登壇する予定だ。君、招待状持ってるだろう?」

確かに、私のメールボックスにはその招待状が届いていた。取材を兼ねて参加するつもりだった。

針はタブレットを閉じ、立ち上がった。

「情報はここまで。残りの半分の報酬は、君が高城から何かを聞き出した後にしよう」

彼は名刺代わりの白いカードをテーブルに置き、去っていった。カードには針の連絡先と、一行のメモが走り書きされていた。

「鏡は見る者を映すだけではない。時には、見る者を変えることもある」

その夜、私は再び虎ノ門の「鏡屋」を訪れた。午後9時を回り、周囲のオフィスビルはすっかり暗くなっていたが、理容室の明かりだけは煌々と灯っていた。

店内には一人の客もいない。カウンターには七十歳ほどの瘦せた老人が、古い鏡を磨いていた。彼が三代目鏡師だろう。

「閉店間際にすみません。ちょっと伺いたいことが――」

老人は振り向かずに言った。

「当店は予約制です。明日またお越しください」

「先週、こちらで雨宿りをさせていただきました。その翌日から、少し変わった体験をしまして」

老人の手が止まった。ゆっくりと振り向いた彼の目は、驚くほど若々しく、鋭かった。

「どんな体験です?」

私は覚悟を決めて、自分が体験した「別の人生」のことを話した。外資系ファンドのアナリストとしての記憶。自分が書いたはずのないレポートの内容。知るはずのない取引先の顔。

老人は無言で聞き終えると、深いため息をついた。

「ついに来てしまったか」

「何が?」

「『鏡合わせ』の現象だ」老人は手に持っていた鏡をテーブルに置いた。「我が家は百年以上、鏡を通じて人々の『もう一つの可能性』を見つめてきた。本来は、人が進むべき道を照らすためのものだった。だが、最近の技術はそれを歪めている」

「ニューロ・リフレクション・ラボのことを言っているのですか?」

老人の目がわずかに見開かれた。

「よく知っているな。だが、彼らがやっていることは『鏡合わせ』ではない。『意識の盗み見』だ。いや、それ以上に危険なものかもしれない」

彼は奥の部屋から、古びた革のアルバムを持ってきた。

「見ろ。これが本当の『鏡屋』の仕事だ」

アルバムを開くと、そこには戦前から現代に至るまで、様々な人々が店内の鏡の前で撮られた写真が貼られていた。政治家、実業家、芸術家――誰もが知る顔ぶれが並んでいる。

「この鏡は、人が本来持っている可能性を映し出す。だが、それはあくまで『可能性』に過ぎない。それを現実と取り違えてはいけない」

老人は一枚の写真を指さした。それは十年前の、まだ若い高城竜也が鏡の前で撮られたものだった。彼の表情には、現在の成功からは想像もつかない不安と期待が入り混じっていた。

「この青年もかつてここを訪れた。彼は鏡に、自分が世界的投資家になる姿を見た。そしてその道を歩み始めた。だが――」

老人の声が曇った。

「最近の彼は、鏡に映った姿だけを追い求めている。鏡の向こう側にあるものの代償に、気づいていない」

「代償とは?」

「鏡は双方向だ。こちら側から向こう側が見えるなら、向こう側からもこちら側が見えている」

その言葉の意味を考えていると、私のスマートフォンが震えた。見知らぬ番号からのメッセージだった。

「明日のカンファレンス、楽しみにしています。久しぶりに話しましょう。高城」

メッセージには、カンファレンス会場の裏口の地図が添付されていた。午後10時、警備員のいない時間帯に来い、と。

老人は私のスマホ画面を一瞥すると、顔を曇らせた。

「行くつもりか?」

「行かなければ、何もわからない」

「ならば、これを携えていけ」

老人は小さな懐中鏡を差し出した。銀の縁取りが古びてはいたが、鏡面は驚くほど澄んでいた。

「これは『真実の鏡』だ。嘘を見破り、隠された意図を映し出す。だが、使い方は慎重に。鏡は時に、見たくないものも映し出すからな」

私は鏡を受け取り、ポケットにしまった。

「なぜ、こんなことを教えてくれるのですか?」

老人は初めてかすかな笑みを浮かべた。

「我が家の鏡は百年以上、この街の人々を見守ってきた。だが最近、映るはずのないものが鏡に現れるようになった。それは警告だ。何かがこの世界の『境界』を侵し始めている」

彼は窓の外、真向かいのビルを指さした。ニューロ・リフレクション・ラボのオフィスは、いくつかの窓だけが不気味な青白い光を放っていた。

「あの実験が成功すれば、人はもはや『自分自身』でいられなくなる。鏡に映った他人の人生を生き、他人の夢を追うことになる。それでいいと思うか?」

私は答えられなかった。

老人はうなずき、店のシャッターを下ろし始めた。

「もう帰れ。そして覚えておけ。鏡はあくまで道具だ。それを使うのは人間の意思だ。お前が何を見るか、それによってお前自身が映し出される」

店を出ると、虎ノ門の街は冷たい雨に包まれていた。ポケットの中の鏡が、微かに温もりを帯びているような気がした。

明日、高城と会えば、何かがわかるかもしれない。だが同時に、私自身の「境界」が危うくなる予感がしていた。

スマホが再び震えた。今度は針からのメッセージだった。

「緊急。ニューロ・リフレクション・ラボの元研究者から連絡あり。『彼らは鏡を通じて過去も覗いている』と言っている。詳細は明日。気をつけろ。」

雨の中、私はタクシーを探しながら考えた。鏡が映すのは未来の可能性だけではないのか? 過去を覗くとはどういうことか?

そして最も恐ろしい疑問が頭をよぎった――もし鏡を通じて過去が変えられるなら、今の「現実」は本当に最初からあったものなのか?

タクシーの窓に映る自分の顔が、ふと他人のように見えた。

(次話へ続く)

【新たな伏線】 - 鏡は過去も映し出す可能性 - 現在の「現実」が最初からあったものかという疑問 - 高城の真の目的と「クロノス・キャピタル」の関与

【回収した伏線】 - 主人公の「別の人生」体験の原因が「鏡屋」と関連していることが判明 - 高城竜也という人物の存在と、彼が「クロノス・キャピタル」の日本代表であることが明らかに

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